essay / 湖畔の思索日誌
苦手なものしりとり
利権でうごくやつ
ついでの頼まれごと
取り分け
けんか
勝ち負け
結婚式
決まりごと
トランプ大統領
海でさわぐひとたち
力関係
イカの処理
立体図を描く
クラウドファンディング
ぐいぐいくるひと
戸締まりの確認
光らない時間
私たちはいったい、この手のひらの四角い画面に人生のどれだけの時間を費やすのだろう。
ふと、おそろしくなる時がある。
それが無い時代を知っているのに、それはもう遠い昔のことのよう。
それが無い時代に、どんな過ごし方をしていたの。
それが無い時代の小説を読み、それが無い時代の映画を観る。
それが無い時代には、今は失われてしまった時間が溢れていた。
四角い画面の向こうには今日も数多の、如何にも豊かで輝かしい人生が溢れている。
たくさんのハートを求める人々の首は直角に折れ曲がり、充血した目線の先にあるのは手のてらで光る四角い画面。
この四角い画面に人生が吸い込まれるなんてご免だ。
私の時間は、人生は、画面越しにあるのではない。こちら側にあるのだ。
そう言い聞かせて前を向く。
目の前で流れていく光らない時間を、私だけの心に刻む。
ちょうどよい距離感
常にちょうどよい距離感を求めている。
ちょうどよい距離感はとても安心できる。
でも具体的な距離とも違うから、距離感を言葉で伝えるのはむずかしい。
たとえば、名前に「さん」付けはとても好ましい。最も好きな敬称だ。
「ちゃん」や「くん」は最初は緊張するけれど、慣れてきたら自然に呼べる。
ニックネーム呼びや呼び捨ては、かなりハードルが高い。
初対面でニックネームしか教えてもらえないとかなりつらいけど、何度も会う人なら呼べるようになる。
滅多に合わない人だと、呼ばずに会話できる方向へ誘いたい。
一番難易度が高いのは、「さん」から「ちゃん」またはニックネーム呼びへの移行だ。
タイミングも難しいし、相手から促されて変えるパターンと、周囲の呼び名に合わせて何となく変えるパターンがあり、どれを取ってもスーパーハードだ。
「さん」付けの敬称呼びは、私にとっては最適な距離感だけど
相手にとってはどうなのだろうか、と時々考える。きっとひとりひとり最適な距離感は違うのだろうから。
そういった意味では、互いに同じくらいの「ちょうどよい距離感」を持つ人とは、長くつき合えるということなのかもしれない。
身近な存在だと、夫とはとてもちょうどよい距離感を保っている。互いに呼び捨てにしない関係は、これからも変わらないであろう。
最後に、
敬語はとても落ち着く。
略語が苦手だ。できれば正式名称が良い。
でも、ちょっと古いけど、げきおこぷんぷんまるという言葉は怒りをまろやかにしてくれるので好きだった。使いはしないのだけれど。
だから時々、いいなと思う略語もある。やはり使いはしないのだけれど。
夕刻の虹
日の入りが少しずつ早くなり、仕事を終えて車に乗り自宅へと向かう時間がちょうど夕暮れと重なる。
昨日の夕空はオレンジとパープルとピンクを混ぜたような明るみを帯びた色で、
すでに暮れた遠くの薄暗い空との対比と、所々に射す黄金色の光が何とも美しく、こういう日の帰路は特にゆっくりと車を走らせたくなる。
カーブを曲がったその時、ただでさえ美しいその空に虹が架かっていた。
思わず声が出た。あぁ…きれいだなぁ…。
後続車やすれ違った車のドライバー、そして同じ時刻に空を見上げたすべての人が、きっと同じ気持ちだっただろう。
次のカーブを曲がった時には、もう消えていた。
自然のもたらす力は偉大で平等だ。この夕刻のたった一瞬で多くの心を癒やすのだから。
人間など、到底足元にも及ばぬことを自覚する瞬間でもある。
そして及ばぬながらも、本質的に良いと思える生き方を私は選びたい。
忖度なく誰もが美しいと感じた、あの夕刻の虹のように。
喧噪の中の静けさ
インドは二度訪れた。21才の時と、26才の時だ。
初めての海外がインドだった。大学の仏教遺跡研修で北インドに2週間。
その時にまた来ようと心に誓い、26才の時に南インドから北インドへ半年ほど旅をした。
秩序正しい日本とは大きく異なるインド。中でも一番衝撃を受けたのは、音だった。
それは瞬間的には騒々しさに感じるのだけれど、よく耳を澄ませば理解できる音の多様さに気づけば魅了されていたのだった。
車やオートリクシャーのクラクション、客引きや物売り、物乞いの声、ヒンズーの祈りの歌、プージャの儀式、どこからか聞こえるインド音楽、人々のおしゃべり、チャイの素焼きのコップが割れる音、洗濯や沐浴の賑わい、とにかくあらゆる生活音が混沌と渦を巻く。
静けさを好む私にとって、これらの音を耳が受け入れるまでに少し時間が必要だったけれど、この音には人々の「生」が密接していて、人々の生きるエネルギーそのものなのだと感じるようになってからは、不思議なことに、喧噪の中にいるのに心地よい静けさを感じていた。
音の源には命がある。そんな当たり前のことに気づかせてくれたインド。
あの音が、私にとってのインドだ。
そして時々途方もなく、あの音の中に身を置きたくなるのだ。
