essay / 湖畔の思索日誌
キリングフィールドを訪ねて
プノンペンで必ず訪れようと決めていた二つの場。
一つはプノンペン市郊外にあるチュンエク。キリング・フィールドと呼ばれる場所だ。
もう一つはプノンペン市内にあるトゥールスレン虐殺博物館(当時はS21と呼ばれていたトゥールスレン収容所)。
どちらも、ポル・ポト政権下の虐殺跡地である。
カンボジアでは1975年から1979年まで、ポル・ポト政権の下、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)によって国民の約四分の一に当たる約170万人以上の(実際は200万人近いともされる)大量虐殺がおこなわれていた。
これは遠い昔の遠い国のフィクションでは無い。
世界が大きな反省をしたはずの第二次世界大戦終結からわずか30年後に、
もっと身近な感覚で言うと、私の両親が30代で、私の姉や私自身が生まれた頃、そう遠くないアジアの国の中で起きている。
***
ポル・ポトは原始共産制を理想に掲げ、誰もが平等な農業中心の農民国家を目指していた。
反米・反ベトナム感情が高まる中で、親米寄りの政府軍に対抗するポル・ポト派は、政府の重税から農民を解放し、農村部から熱い支持を受けるようになっていた。
首都プノンペンを制圧し、親米派のロン・ノル政権を倒しポル・ポト政権が誕生したときは、人々は新しいカンボジアを夢見てポル・ポト派を歓迎したという。
ところがポル・ポトは、国民を「都市住民(ニューピープル)」と「農村住民(オールドピープル)」に二分化し、そこから想像を絶する支配と粛清の政治が始まる。
すべてはオンカー(ポル・ポト派、クメール・ルージュの組織)の指示が絶対であり、背くことは死を意味した。
都市住民と農村住民は異なる扱いを受け、都市住民は資本主義に汚染された者・農業を知らぬ反革命分子として地方の農村への強制移住と強制労働の対象となった。
まともな食事は与えられず一日中過酷な労働を強いられていたため、農村部では拷問死よりも、強制労働や飢餓による死が多くを占めていたという。
医師、教師、知識人は特に標的とされ、知識を持つことは農業をしてこなかった時間が長い証として処刑の対象となった。
眼鏡をかけているだけ、または字が読めるだけで知識人と見なされ、連行され処刑された。
僧侶、旧政権関係者、異民族、体制に反抗的な人物もまた、S21のような収容所に連行され、拷問か家族もろとも殺害された。
ポル・ポト政権下では、通貨、金銭、私有財産、宗教、教育、医療、都市、家族を否定そして破壊し、
子どもは親から引き離され、オンカー(組織)の子どもとしてクメール・ルージュの厳しい洗脳教育を受け、少年少女兵として過酷な環境下で育てられた。
子どもたちの任務は、監視、処刑、地雷埋設、農業で、そこには学校も教育も家族も存在しなかった。
***
チュンエクに着いたのはまだ午前中で、爽やかな風が吹いていた。天気は快晴。
首都プノンペンの大都会とは違って、のどかな平地が広がっている。
ゲートで入場料を支払い、真っ直ぐ進んでいくと大きな慰霊塔がある。
近づくとすぐに気がついた。その塔の中に無数の頭蓋骨が安置されていることに。
ポル・ポト派による大量虐殺実行の場となっていたキリングフィールドのひとつであるチュンエクには、当時の小屋や建物、農具や処刑道具などは殆ど残されていない。
ポル・ポト政権崩壊後に建材や資材として多くの人が持ち去ったそうだ。
ではチュンエクに何があるのかというと、無数の穴だ。
チュンエクでは最大で二万人が命を落としたと推定されており、虐殺の末に埋められた人たちの遺骨が、今なお眠っている。
穴からは、衣服の一部などが見えるところも存在した。
当時、トゥールスレン(S21)などからチュンエクに移送されてきた収容者を処刑者リストと照合し、その後穴の前に連れて行き跪かせ、弾薬節約のため斧やつるはしなどの農具などを使用して殺害した。
毎日数十人から三百人以上が処刑されたという。
順路に従って歩いて行くと、一つの樹がある。たくさんの色のブレスレットが無数にくくりつけられている、一際目立つ樹だ。
たくさんの幼い子どもが、この樹のもとで命を落とした。
成人犠牲者の子どもや乳幼児は、「成長したときの復讐を未然に防ぐため」という理由で、足を掴まれ振り子のように木の幹に頭を打ち付けられて、殺害された。
樹の隣には大きな穴があり、親と一緒に投げ込まれたようだ。
途方も無くつらい場所で、感情の出口が見つからなかった。
その場を少し離れると小さな池があり、蓮の花が美しく咲いていた。ベンチに腰をかけ、ただ、座っていた。
きっと当時も、こんなに空が青く、風の心地よい日もあったのだろう。
自然がもたらすこの瞬間だけは、どの時代を生きるどの命にも平等で普遍だ。
空が青いなぁ。風が心地よいなぁ。
ただその瞬間をただそのままに感じられる、それすらも許されぬ生き地獄を、人間はなぜ作り出してしまうのだろうか。
***
チュンエクのあとに、市内に戻りトゥールスレン虐殺博物館へ向かった。賑やかな町の中にある。
入場料を払い、プラス5ドルで日本語音声ガイドのレンタルができたので、ヘッドフォンをつけながら見学することにした。
ポル・ポト政権下で「S21」と呼ばれていたこの場所は、想像もつかないがかつては子どもたちの元気な声が響き渡っていた学び舎だったという。
夢が芽生えるはずの場が政治犯収容所として転用され、教室内は雑居房や煉瓦で手狭に仕切られた独房になっていたり、黒い血のシミが残る拷問部屋になっていた。
S21で犠牲になった人々の写真や拷問時の写真、そして当時の記憶をもとに生存者が描いた絵画も展示されている。
今現在の自分と同世代くらいの人が大多数、まだ10代かそれにも満たない子どもの写真も多かった。
2年9ヶ月の間に約二万人が収容されたと言われており、生還できたのはたったの12人だった。
建物は当時の状態のまま保存されているので、とても生々しく、時々外に出て空気を吸わないと具合が悪くなるほど苦しかった。
自分と同じように、外のベンチで休んでいる見学者を度々見かけた。
実際に起こったことなのだからどんなに辛くとも目を向けよう、そう心に決めて時間をかけながら施設内を巡った。
2時間後、重石のごとくずっしりと沈んだ心を引きずって、トゥールスレン虐殺博物館(S21)をあとにした。
近くのカフェで待ってくれていた妹とプノンペン在住のMさんと合流し、少しずつ今の時代に意識を戻していく。
コーラを頼み、持ってきてくれたカンボジア人の男性がとても元気で、それだけのことなのだけれど深い安堵感に包まれた。
その後、Mさんが"今の"プノンペンをたくさん案内してくれた。
少し遅めの昼食で訪れた素敵なカフェで使われていた食器は、日本の庶民的な昭和の陶磁器のセカンドハンドで、にわかにブームになっているようだ。
交通手段となっているボートにも乗船した。
大勢の人が器用にバイクで一斉に乗船する光景は、トンレサップ川とメコン川が交わる場所に形成された首都プノンペンならではの日常風景だ。
ミルクコーヒー色のトンレサップ川と、ブルーのメコン川が合流する不思議なコントラストを眺めながら対岸へ向かい、
対岸で下船する人々、そしてまた器用にバイクで乗船する人々を船から眺め、もとの岸へと戻っていく。
Mさんが見せてくれたプノンペンの日常に、心が静かに熱くなる。
この国の人々は、どう乗り越えたのだろう。
いや、乗り越えるという言葉は相応しくないのかもしれない。
何とか生き抜くことができた人々が、その先も生き伸びるために前に進んでいかなければならず、大きな悲しみや苦しみを携えながらも、まずは必死の思いで日常を取り戻したはずだ。
あの悲劇を経て、そこから今のプノンペンを発展見ると、やはり「すごい」の一言だ。
船上から、ちょうど沈みゆく夕日が見えた。
平和な日常の、ありふれて尊い夕日だ。
この日常が二度と壊されず続くことを、ただ願った。
***
ポル・ポト政権時代に国民の四人に一人が命を落とし、その対象の多くが青年期や壮年期の人々で、その頃の出生率もかなり低く、生まれたとしても生きられなかったという背景から、カンボジアにおける現在の40代から50代くらいの人口比率は極端に少ない。つまり、自分と同世代の人口がかなり少ないということだ。
私は1979年生まれだ。もし生まれた場所がカンボジアであったならば、両親や姉は渦中にいて、もしかしたら生き残れず私もこの世に生まれていなかったかもしれない。
現在のプノンペンは若者が溢れ、とにかくエネルギーを感じる。
プノンペン最後の夜に、Mさんが連れて行ってくれたカフェバーは、20代くらいの世代の人たちで賑わっていた。
楽しそうに語らい合うこれからの世代の生き生きとした姿に、未来への希望を感じずにはいられなかった。
カンボジアのインフラや国際協力等の重要な支援国である中国や日本の企業も多く進出しており、イオンモールを見かけた時には「こんなところにも日本が!」と感動した。
外国人観光客や外資系の企業が国内に存在するということは、賛否はあれど平和のひとつの目安になり得る。
歴史を遡っても、国交が断絶される事態の方が遙かに危機的だ。
どの国も、互いの国の文化や魅力を尊重しながらバランス良く交流できたなら、と強く思う。
あの時代を生き抜いた人々、あの時代の後に生まれた世代が入り交じる時代。
実際にはまだ多くの問題や課題を抱えながらも、ここまでの復興と経済成長を果たしたカンボジアは、エネルギッシュにこれからも益々発展していくだろう。
ポル・ポト時代の歴史を探求していくと、この悲劇と大罪が「ポル・ポト派によるもの」という歴史の断片だけで通過してはいけないことに気づく。
その向こうにはベトナム戦争、インドシナ戦争、冷戦、そして力を持つ国のかつての植民地主義的な支配が連なっている。
その史実を紐解いていかないと、見えてこない世界がまだまだある。
今なお繰り返される人間の人間による愚行を前に、
「なぜ人間は…」と落胆に落胆を重ねる日々が続くけれど
それでも自分は、過ちから学び、心を重ね思考し続けることを止めようとは思わない。
人間は誰もが愚かな側面を持ち、自分もまた例外ではないからだ。
自分もそうなり得る(先導、加担、扇動される側になり得る)危険性を常に孕んでいることを忘れず、
そうならない為に、互いを認め尊重できる方法を探し
ひとりひとりの平和や希望の小さな灯火を繋いでいくために、自分できることを考え続けたい。
プノンペンの夜
初めて降り立つカンボジアは、厳しい暑さになる少し前の爽やかな夏の季節だった。
2025年9月に開港したばかりのカンボジア・プノンペンのテチョ国際空港は、圧倒されるほど近代的だ。
トイレも美しくトイレットペーパーは標準装備だし、照明はまるでリラックスできるラウンジのようだった。手を洗うシンクは水もハンドソープも温風も自動で出てくる。あまりにもきれいですっかり感動してしまった私は、用も無いのに二度も用を足しに行った。
今回の旅の持ち時間は二週間。
カンボジアではプノンペンに二泊、シェムリアップに二泊の行程で、その後インドへ向かう。
*
プノンペンでは、旅を共にしている妹と交流のある日本人ご夫婦宅(Mさん宅)にお世話になることになっていた。
妹は2年前にもカンボジアを訪れていて、ひどい胃腸炎で観光もままならなかったところをMさんに随分助けていただいたようだ。
だから今回は元気な姿でMさんとの再会を果たしお礼を伝えたい 、そして絵美ちゃん(私)は絶対にMさんのことが大好きになるから会わせたい、と妹から聞いていた。
日本でも誰かの家に泊まる経験があまり無い私は些か緊張し、初対面の私まで泊めていただくのは申し訳ないと思いつつも、国際協力の仕事で日本を離れ異国で暮らす(その時点では未だ見ぬ)Mさんご夫婦に対し既に深い敬意と憧れを抱いており、お目にかかりたい気持ちの方が遙かに大きくお言葉に甘えさせていただくことにした。
そしてカンボジアの旅のもう一つの目的として、自分の人生において大切にしている「負の遺産」の訪問があった。
自ら足を運び、目に焼き付け、人間が犯してきた過ちの歴史と向き合うこと。そしてそこから学び、同じ過ちを繰り返さないために平和への自分の意思を軸に据え、自分にできる平和活動を探していくこと。
今の国際社会を見ていると、どうやら願っているだけでは平和は遠のくばかりだし、そればかりか不穏な空気が世界中で色濃くなりつつある。
終わらない戦争や新たな戦争、それによる難民貧困問題、もう猶予が無い地球温暖化。これらはすべて人間が加速させている。
感じ、学び、考え、行動する。その循環を通して、抽象的で遠くに感じる「平和」を具現化或いは可視化し、草の根的に広めていけるよう探求していきたい。
今回立ち寄るプノンペンには、ポルポト政権下のクメール・ルージュによる虐殺現場であるキリング・フィールドやトゥールスレンがあり、目にするのが辛くともその二つは必ず訪れると決めていた。
*
カンボジアでは、タイやマレーシアでの旅と同様にGrabという配車サービスを含むアプリがとても便利で、移動に困ることはほとんど無い。
日本を除くアジアの国々は新しいシステムを積極的に導入し、その利便性には驚かされるばかりだ。
日本がアジアのトップだと信じて疑わない人も多いけれど、移動のしやすさに関しては圧倒的に遅れている。
近代化がすべて良いとは思わない。けれども、マイノリティが日常的に移動しやすい(利用しやすい)交通手段があるということは、ユニバーサルデザインとして全ての人に有効であることは間違いない。
私たちは空港からGrabを利用し、夕方くらいにMさん宅へ到着した。
呼び鈴を押して少しすると、ガチャンと錠を外す音がして門が開き、Mさんが太陽のような笑顔全開で出迎えてくれた。
不思議なほど初めて会ったような気がしない、いや、そう思わせない人柄なのだろう。そのおかげでバックパックと一緒に背負っていた緊張が一気に解けた。
まだ緑色のマンゴーがたわわに実る庭の木をくぐると、南国らしい解放感あふれる美しい家(というより館だ!)が 現れた。
私たちが気を使わないよう手際よく部屋に案内してくれて、その日はMさんがラオスの手料理を振る舞ってくれた。
MさんはNGOの仕事でラオスに赴任していたことがあり、食事をしながらその頃の活動の話をたくさん聞かせてもらった。
日本からは見えない場所で、決して安全とは言えない場所で、国際平和のために命を張って仕事をする日本人がいる。
そのことを例え頭でわかっていたとしても、経験した人から直接話を聞かせてもらえるこの貴重な時間は何百倍ものパワーを持つ。
Mさんはリーダーシップの星の下に生まれたような、スーパーウーマンだ。エネルギッシュで、一人10役くらいを平気でこなしてしまう頼もしさ。
ついて行きたい!と思わずにはいられない。Mさんが国会議員に立候補してくれたら、私は100%支持するだろう。(立候補してほしい。)
妹が言っていた通り、私はすっかりファンになってしまった。
*
食事のあとは女三人で夜の繁華街へ繰り出し、Mさんおすすめの穴場のルーフトップバーへ。
普段はほとんどお酒を飲まない自分も、初めてのルーフトップバーにやや高揚し、不思議と呑みたくなってきた。
迷うのは苦手なので、私はメニュー表で一番最初に目に入った「オーランド・ブルーム」という昔狂ったように好きだったハリウッド俳優と同じ名前のカクテルを頼んだ。
オーランド・ブルームの笑顔さながらの爽やかな柑橘系のカクテルはとても飲みやすく、乾杯をしたあとは再び話に花が咲いた。
ちょうど衆院選開票日が近かったので、海外にいる時にはどのように投票するのかを教えてもらい、日本で投票するよりも遙かに労力を伴うのだと初めて知った。
特に今回の衆院選は投票日までの日数も少なく、投票に間に合わない海外居住者もかなり多くいたようだ。
今の日本の政治や世界情勢の話から自分の人生への向き合いかたについての話まで、まわりを気にすることなく語り合えたのは、日本から遠く離れたプノンペンだったからということも勿論あるけれど、それよりも何よりも今ここにいる三人が、そういったテーマについてそれぞれ日頃から考えていて、それを話題の中心に据えて公然と語り合える!という喜びが大きかったのではないかな、とも思っている。
少なくとも私にとっては、胸が熱くなるような素晴らしい夜だった。
日本にいる時には、大抵午後6時には帰宅し、夕飯を作り、子どもの宿題やら何やらをやってから風呂を済ませ、本を読んだり映画を観てから眠りにつく。
それが私にとっての日常の「夜」だ。
プノンペンのバーで南国のあたたかい風を受けながら、オーランド・ブルームを飲み、同世代の女三人でこの世界について語り合う。
それもまた私の人生に実在したひとつの「夜」なのだ。
当たり前だけど、自分から向かわなければ出会えない「夜」でもある。
それと同じように、世界にはさまざまな「夜」がある。
戦禍の「夜」。難民キャンプの「夜」。すべて同じタイムライン上の、同じであって同じではない「夜」だ。
その感覚を、つまり自分の日常以外の時間軸を感じるために、私は旅をするのかもしれない。
ふとそんなことを考えた、プノンペンの夜だった。
*
Mさんに出会わせてくれた妹と、限られた滞在日数の中で貴重な時間をたくさん紡いでくださったMさんに、心から感謝を。
Mさんのパートナー・Aさんは、JICAの職員としてCMAC(カンボジア地雷処理センター)に派遣され、対人地雷除去活動に関わる仕事をされている。
ご多忙なスケジュールの中、最終日にカンボジアにおける対人地雷除去活動の現在の話をたくさん教えてくださり、人生において大変貴重な学びの時間となった。
Aさんのおかげで、この後に訪れたシェムリアップのアポポでのヒーローラットと地雷の話が、よりしっかり理解することができた。
Mさん、Aさんに深く深く感謝を。
*
アルゴリズムは恐ろしい。
帰国後、Instagramのおすすめ投稿でオーランド・ブルームが出てきた。
彼は今、ユニセフの親善大使として活動しているようだ。
好き。
母と妻を置いていく
2年くらい前から、日常的な役割を外して旅をする時間をもらっている。
「家族公認の家出」であるこの貴重な時間を創出するには、大前提として家族の理解と信頼無くしては成り立たない。
いつだったか、夫と初めて膝と膝をつき合わせ、家庭内のさまざまな労働の比重について話し合ったことがあった。
今話し合わなければいずれ破綻してしまうと感じ、相当な覚悟をもって私から切り出したのがきっかけだ。
言い合いや責め合いにならぬよう、辛く感じている部分やこうするともっと楽になる或いは納得できるなどの検討事項をすり合わせ、完璧な平等は不可能なので目指さず、私たちにとっての最適なバランスを探った。
その詳細は書かないけれど、この話し合いをもって、私たちは初めてちゃんとパートナーシップを持てたように思う。
問題点を互いに理解し解消できるよう努力すること、子どもに対しては父と母で差別化せず二人でしっかり関わること、その姿勢を共通目標に掲げた。
そういった経緯があり、私は一年の中で数週間、家庭における役割を外して自由時間を得られることになった。
もちろんその期間は、夫がすべての家事労働を担う。
夫も子どもも、楽しんできてねと送り出してくれる。それがどんなにありがたいことか、身に染みている。
多くの人に子どもは寂しがらないかと聞かれるけれど、我が家の場合は拍子抜けするほど平気で、旅の間は夫からも子どもからもほとんど連絡が来ない。
そのおかげで私も全身全霊で旅を堪能できる。
ただ一人の人間としての感覚を味わいながら刺激しながら、忘れかけていたもう一つの時間の在り方を思い出す。
旅を終えて帰宅した時、二人の顔はどこか自信に満ちあふれていて神々しい。
おかえり、全然余裕だったよ、と言う二人の言葉に心の中で手を合わせて感謝する。
私が日頃料理の時に愛用しているセイロをどうやら夫も使っていたようで、微笑ましく、そして頼もしかった。
敬遠していた子どもの爪切りも遂にクリアしたようだ。
子どもは、私が起きる前に身支度もご飯も済ませるほど、朝が円滑になっていた。
旅を終えるごとに驚きの進化を見せてくれる二人のことを、心から誇りに思う。
役割からの解放という貴重な時間を作ってくれることにも。
そして、店を守ってくれる私の家族と、旅の話を楽しみに待っていてくれる夫の家族にも、旅をともにしてくれた妹にも、最大限の感謝を。
喧噪の中の静けさ
インドは二度訪れた。21才の時と、26才の時だ。
初めての海外がインドだった。大学の仏教遺跡研修で北インドに2週間。
その時にまた来ようと心に誓い、26才の時に南インドから北インドへ半年ほど旅をした。
秩序正しい日本とは大きく異なるインド。中でも一番衝撃を受けたのは、音だった。
それは瞬間的には騒々しさに感じるのだけれど、よく耳を澄ませば理解できる音の多様さに気づけば魅了されていたのだった。
車やオートリクシャーのクラクション、客引きや物売り、物乞いの声、ヒンズーの祈りの歌、プージャの儀式、どこからか聞こえるインド音楽、人々のおしゃべり、チャイの素焼きのコップが割れる音、洗濯や沐浴の賑わい、とにかくあらゆる生活音が混沌と渦を巻く。
静けさを好む私にとって、これらの音を耳が受け入れるまでに少し時間が必要だったけれど、この音には人々の「生」が密接していて、人々の生きるエネルギーそのものなのだと感じるようになってからは、不思議なことに、喧噪の中にいるのに心地よい静けさを感じていた。
音の源には命がある。そんな当たり前のことに気づかせてくれたインド。
あの音が、私にとってのインドだ。
そして時々途方もなく、あの音の中に身を置きたくなるのだ。
