essay / 湖畔の思索日誌

2026-09-09 14:00:00

【読了録】 月ぬ走いや、馬ぬ走い

月イチ文學倶楽部

◆8月のテーマ図書◆

豊永浩平 『月ぬ走いや、馬ぬ走い/講談社文庫』

 

第67回群像新人文学賞、第46回野間文芸新人賞、第11回沖縄書店大賞(小説部門)をトリプル受賞し、2024年琉球大学在学中の21才にして鮮烈なデビュー作となった本作。 戦中から現代までの14人の語りを通して、まったく新しい角度から沖縄80年史を描いた作品。

 

私は結果として三度読み重ねた。 このような文章構成は初めてだった。

時代背景の異なる14人の語り、つまり一人称による「声」のみが、最初から最後までノンストップで描かれている。

14人の声=14章は、一見途切れているようでいて、実は文末から次の文頭への繋がりを持ち続ける。

 

一度目はこの構成に理解が追いつかず、とにかくまずは最後まで読んで全容を把握するため、多くの「?」を残しつつ読み終えた。

いったい誰が語っているのか。それが文中で推測できる章もあれば、語り主が正体不明で一度読みだけでは把握できない章もある。

 

二度目は、声の主の推測(名前など)、この14人の生きている時代背景の分析、語りの中に存在するキーワード、現時点での生死などを、登場順にノートに書き出してみることにした。

すると、一度目には理解できていなかった現代から過去への連なりが浮き出るように見えてきたのだ。

 

語り主たちの繋がりを感じながら読む三度目は、一度目とはまったく異なる、時代を越えて余韻を残す奥深い読了感となった。

 

沖縄のお盆、「道巡礼(ミチジュネー)」の季節に、14人を通して語り紡がれていく声と、

時代を越えても尚断ち切れぬ、苦しみの象徴とも言える彷徨う「軍刀」は、

太平洋戦争から今現在にも繋がる沖縄の人々の歴史であり日常だ。

 

多くの県民が犠牲になった地上戦、組織的戦闘終結後の収容キャンプ生活、占領下で常態化する性暴力、同じ日本でありながらパスポートが無ければ移動が許されない返還前の沖縄、沖縄基地から多くの米軍機が出立したベトナム戦争、学生運動や闘争の追い風で過激な暴力行為と権利の狭間で苦しむ若者たち、貧困と性被害の連鎖から抜け出せない現代の母娘、過去から今までの不条理も含めて必死で生きてきた証を歌に込める高校生たち…。

 

私たちの知る沖縄戦の歴史は、教科書の2ページにも満たない断片に過ぎない。

しかし当然ながら歴史はパーツで存在しているわけではない。

一人の紐を引けば、そのルーツに多くの人や出来事が絡みつきながら繋がり合っている。

 

島尻・ケンドリック・浩輔という現代を生きる少年の語りから始まり、お盆のさいごの日「お送り(ウークイ)」にかーなー(かなちゃん)という少女の語りで終わるこの物語。

2人の間に存在するのは、 14人の向こうに広がる何百万何千万という魂なのだろう。

魂込め(マブイグミ)で拾うことのできた魂も、まだ彷徨う魂も含め。

 

タイトルでもある「月ぬ走いや、馬ぬ走い」の引用は、小説の中にもたびたび登場する。

その意味は、この81年の沖縄の歩みを知ろうとしなければ見えないのかもしれない。

 

この小説を読み終えた時に、2年前にシアターキノで観た「太陽(ティダ)の運命」を思い返していた。

沖縄の歴代知事のうち、社会党出身の太田知事と自民党出身翁長知事にスポットを当てたドキュメンタリーだ。

党としては相反する立場の二人の知事ではあるが、ともに沖縄の未来を見つめ、保革の壁を越え、「二度と沖縄を捨て石にしない」その一心で、盾となって沖縄の声を国に訴え続けた。

「沖縄には、この国の矛盾が詰まっている」

かつてそう表現したのは筑紫哲也さんだ。

 

そしてまさに今、沖縄県知事選の投票日が近づいている。

今回の知事選におけるSNSでの誹謗中傷やデマ、印象操作などの投稿の9割は、県外からの発信だという。

翁長さんの意志を継ぐ玉城デニー現知事の行く末を注視している。

どの候補が選ばれたとしても、沖縄の人たちの選択を見届け、その場限りでなく今後も関心を持ち続けることが一番大切だと思っている。

 

最後に、今年の沖縄慰霊の日に玉城デニー知事によって述べられた2026年の平和宣言を記載したい。

なおこの宣言は、沖縄県の公式ウェブサイトで誰でも閲覧できるようになっている。

 

【玉城デニー知事の平和宣言 2026年沖縄全戦没者追悼式】

 

81年という年月の長さに、思いを馳(は)せます。

 あの日、

  今と変わらず照りつける太陽の下(した)で、

  一筋の光も届かない壕(ごう)の、真の暗闇の中で、

  いつ止(や)むか分からぬ砲弾の中で、

  あるいは、逃げ込んだ先で罹患(りかん)したマラリアの苦しみの中で、

 生きることを渇望し、かなわなかった、20万を超える命。

 沖縄には今も、その東西の果て、南北のすみずみに至るまで、悲劇の記憶が残されています。

 

今や、沖縄県民の9割以上が沖縄戦を直接に体験しない世代となりました。それでも、わたしたち沖縄県民が、地獄と言われた日々を我がことのように感じ、再びこのようなことを起こさせまいと決意を新たにできるのは、絶えることなく鎮魂と慰霊の営みを続けてきた方々、「後世のために」と子や孫へ、あるいは学校や地域で凄惨(せいさん)な体験を語りついだ方々、さらに、惨劇の舞台となった場所を保存し続けてきた方々の長年の努力の成果にほかなりません。

全てを失ったと言っても過言ではない81年前のあのときから、今日(こんにち)のような美しい島々を取り戻すまでに、先人たちの懸命の努力があったことを、わたしたちは忘れてはなりません。しかしながら、沖縄には今なお広大な米軍基地が存在し、過重な基地負担と基地から派生する諸問題により人間の安全保障が脅かされる現状が続いています。特に、合意から30年が経過しても返還がなされない状況にある普天間飛行場については、一方的な押し付けではない、日米両政府と県の対話による解決を求めています。沖縄県は、一日も早い普天間飛行場の返還をはじめ、過重な基地負担の軽減を訴え続けます。

 

 「沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです」

 

沖縄県平和祈念資料館には、この言葉で始まる「むすびのことば」が掲げられています。しかし、特に近年、大国の力による一方的な現状変更の試みによって国際秩序が揺らいでいる状況は、平和を希求する沖縄県民の、そして世界中の人々の願いから最もかけ離れたものだと言わざるを得ません。

 

戦争は、たとえ遠い国のことであっても決して対岸の火事ではありません。世界中が経済のつながりなどをいっそう緊密にしている現在、他国の軍事衝突が直接・間接に生活に深刻な影響を及ぼすことを、今、わたしたちは身をもって否応(いやおう)なしに経験しています。

 

折しも今年は核拡散防止条約の再検討会議が開催されるも、成果文書の採択には至りませんでした。核拡散への懸念が高まる状況であるからこそ、わたしたちはいっそう、平和と核廃絶を訴えてゆかねばなりません。戦争という手段を否定し、あらゆる戦争に反対し、戦争によらない課題解決を追求することにより、日本国憲法にも国民の念願とうたわれている恒久の平和と、その過程としての核廃絶を目指すことは、空虚な理想論などではなく、取り組むべき責務として求められているのです。

 

この摩文仁(まぶに)の地には、沖縄戦で命を落とした方々のお名前を、敵味方・国籍などの分け隔て無く記すことを理念とした平和の礎(いしじ)があります。また、アジア太平洋地域の平和の構築・維持に貢献した方々を顕彰する沖縄平和賞は、今年、第13回の贈賞を行うほか、県内で平和につながる身近な社会貢献活動に取り組む方々を「ちゅらうちなー草の根平和貢献賞」として表彰しています。このように、あの筆舌に尽くしがたい経験を受け継ぎ、平和のこころを広く国内外に発信しようとする沖縄だからこそ、世界平和の実現のために貢献していく必要があります。

 

沖縄県では、沖縄戦の実相・教訓とこれまでの研究の蓄積をもとに、恒久平和と人間の安全保障の確立を実現させるため、戦後100年に向けてわたしたちが進むべき方向を示したビジョンを策定します。

 

わたしたちは、かつてこの地で繰り広げられた出来事を次の若い世代へ責任を持って正しく伝え、平和について学び考える歩みを続けながら、世界平和の懸け橋としての役目を担い、平和創造の拠点、国際協力・貢献のための拠点として世界の中で確固たる地位を築いてまいります。

 

 数多(あっさ)ぬ人々(ちゅぬちゃー)ぬ惜(あた)ら命(ぬち)宝(だから)奪(ぼー)たる沖縄(うちなー)の大戦(うふいくさ)ぬ生(い)き(ち)地獄(じぐく)や今(なま)ん胸(んに)深(ふか)さんかい刻(きじゃ)み込(く)まっとーやびーん。我々(わったー)や戦争(いくさ)ぬ生(い)き(ち)哀れ(あわり)んでぃし共有(わきわきー)っし、二度(にどぅ)とぅ彼(あ)ぬよーな愚行(ふりぐとぅ)や繰(く)い返(けー)ちぇーないびらん。

 遠方(かーま)ぬ国(くに)をぅてぃぬ戦争(いくさ)やらわん我々(わったー)暮(く)らしにん悪影響(じゃーふぇー)ぐとぅ及(うゆ)ばすんでぃる現実(みーぬめー)ぬくとぅんかい、何処其処(まーんまーん)ぬ国(くに)ぬ戦争(いくさ)やてぃん「戦争反対(いくさやならん)」んでぃち大声(うふぐぃー)っし叫(あ)びらんとーないびらん。世果報世(ゆがふーゆー)実現(すび)なすんでぃるくとぅや単ぬ理想(ただぬうむいかんげー)やあらん。取組(しかき)らんとーならん責任(すくぶん)んでぃし背負(かたみ)らさっとーやびーん。

 我(わ)した沖縄(うちなー)や、戦争(いくさ)ぬ哀(あわ)り受(う)き継(ち)じょーるくぬ沖縄(うちなー)ぬどぅ世果報世(ゆがふーゆー)んかいぬ貢献(うさぎむん)やないるんでぃる確信(うむい)かきてぃ、世界(しけー)ぬ人々(ちゅぬちゃー)とぅ共々(まじゅん)なてぃ、うぬ役割果たす(むちめーしーなす)んでぃし、此処(くま)をぅてぃ宣誓(やくすく)さびーん。

 

本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の意を表するとともに、世界の恒久平和・核廃絶に沖縄が貢献する未来を目指して、不戦を誓い、反戦を訴え、非戦の道を探求することを決意し、ここに宣言します。

 

 

◆しまくとぅば(沖縄の言葉)・英語の意訳

 あまたの人々の命を奪った沖縄戦の悲劇は今も深く刻まれている。我々は戦争の悲惨さを共有し、二度と愚かな行為を繰り返してはならない。

 遠い国の戦争でさえも暮らしに影響する現実に対し、あらゆる戦争に反対すること、平和を実現することは単なる理想ではなく、取り組むべき責任が求められている。

 沖縄県は、戦争体験を受け継ぐ沖縄こそが平和に貢献できると信じ、世界の人々とともにその役割を果たすことをここに誓う。

 

2026-08-02 15:46:00

【読了録】海と毒薬

◆7月のテーマ図書◆
遠藤周作 『海と毒薬/講談社文庫』



第二次世界大戦末期に実際に行われた、九州大学医学部の米軍捕虜に対する生体解剖事件をモデルに、対照的な二人の医局員・勝呂と戸田の心情を通して、宗教的倫理観が身近ではない日本人の精神風土と、罪の意識や良心の所在を根源的に問う遠藤周作の代表作で、1958年に刊行されて以来、今なお多くの書店で販売されていることが物語っている通り、時代を越えて読み継がれている作品。
7〜8月は戦争文学を数冊、テーマ図書の選定候補に入れていたので、この作品を参加者に選んでもらえて嬉しかった。

私は講談社文庫の『海と毒薬』を、長崎の遠藤周作文学館を訪れた際に購入した。
書店で見かけるのは新潮文庫の本作が多く、今回の読了会で持参してもらった書籍も私以外は新潮文庫だったけれど、表紙のデザインや裏表紙のあらすじも新装版とそうでないものとは違っていて、さまざまな「海と毒薬」が一堂に会した貴重な時間となった。講談社文庫と新潮文庫で文字のサイズやカーニングも微妙に異なり、講談社文庫の方がやや大きく、その分ページ数も多くなっていた。

新宿から電車で1時間の西松原住宅地に越してきた「私」の一人称で始まる物語は、事件の舞台である大学病院にシーンが移ると三人称に切り替わるが、事件当事者の看護婦・上田の手記や、戸田の回顧録では一人称になり、勝呂に関しては最後まで三人称で綴られている。その分多様な視点や心情を体感することができる。

命を救う立場の医局員12名が起こした、生きたままの人間を解剖するという行為は、それだけを取り出すと常軌を逸した悪質な犯罪であることは紛れもない事実であるが、そこに至る過程と、とりまく環境、当事者たちの心情の変化を多面的に分析しないと、この小説の本質が見えてこない。

「みんな死んでいく時代」という表現が何度か出てくる。戦場で、空襲で、病気で、飢えで、生きることが難しく、死ぬことが明日の現実だった時代に、死への感覚が麻痺していたこと。

勝呂のように、良心の呵責による自責や葛藤を抱えながらも、集団的倫理観(ここでは所属する医局内の派閥の空気感など)に流され、同じことがまた起きたとしても抗う自信が無いことを自覚し、個人の道徳観とともに自らの人生も埋没していく人間。

戸田のように、個人の道徳観が圧倒的に欠如し良心の呵責を感じることなく生きてきて、醜悪なことだと分かっていても社会的に罰せられなければ問題はないと考え、あの事件すらも今後の医療の発展のためだと捉える人間。

主任教授である橋本の妻・ヒルダのように恵まれた環境に身を置く敬虔なクリスチャンで、「神の存在」という宗教的倫理観を規範に生きる者と、すべてを失い満州から引き上げ孤独を抱えて生きる看護婦上田の交差し得ない良心の所在。

今自分の中に感じる「良心」というものが、どこから生まれてくるものなのか。
私たちが「良心の呵責」や「罪悪感」を感じる時、それは「個人の善性」に対するものなのか、それとも「一神教の神」に対するものなのか、あるいは「他人や社会の目」に対するものなのか。

掘り下げれば掘り下げるほど深みに嵌る、自分としては今後も考え続けたいテーマだ。



小説の前半と最後に引用されている詩が気になったので調べてみると、立原道造の「雲の祭日」という作品だった。

羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ お前が散らすのは
白い しいろい 綿の列

勝呂が屋上で口ずさむ、この詩の隠れた大きな意味を、ぜひこれから読む人には自分で見つけに行ってほしい。



今回の読了会で、「海と毒薬」の続編が新潮文庫から出ていることを知り、早速取り寄せた。
勝呂のその後を、追い続けてみたい。

あと恒例の勝手にキャスティングでは
看護婦長大場さんは江口のりこさんに決定。

2026-06-28 15:22:00

【読了録】水たまりで息をする

主宰している月イチ文學倶楽部の、6月のテーマ図書は高瀬隼子さんの「水たまりで息をする」だった。

 

ある日を境に風呂に入ることを拒絶し、発する「におい」により社会から静かに逸脱していく夫と、「こうした方がいい」という社会規範に合わせて群れなす方へ泳ぐように生きてきた衣津実。

「食べられない」などとは違い、すぐに死には直結しない「風呂に入らない」という行為の受け止め方は、夫という血のつながらない家族であるからこそ想像を絶するほど理解が難しい。

軽視されがちな「心の闇」の見えにくさを、通りすがれば誰もが気づく「不快なにおい」として社会に向けるこの小説の構成は、読めば読むほど発見がある。

風呂文化と清潔感が結びつき、パブリックスペースの無臭消臭が暗黙のルールでもある日本社会の中には、嗅覚での厳しいジャッジは確かに存在する。
仮にこれが、川での沐浴文化や多様なにおいが存在するインドであったなら、違う結末だったのかもしれない。

「水たまり」とは、おそらく生きづらさを抱える当人たちの世界や生活環境であり、私たちの生きる社会の穴でもある。

自分が身を置く水たまりで何とか息をして持ちこたえられる衣津実のような人間もいれば、生きるために必要な自分に合う水を見つけられずに、水たまりで息絶えたり、行き場を失い、追われ、流されてしまう人間もいる。

気休めのハッピーエンドで終わらせず、これが希望なのか絶望なのか、読者に考えさせる余白を残してくれる作品だった。

人は人に厳しい。何らかのかたちで逸脱する人を途端にジャッジする。自分が穴に落ちるわけがないと思っている。

今の状態のまま、老後まで平和に年を重ねていくのだろうと思っていた36歳の衣津実の身に起こることも、

社会生活に感じる痛みが蓄積し、自分の垢とにおいこそが社会から我が身を保護する最強の鎧となってしまう35歳の研志の逸脱も、

実はさまざまなかたちでこの社会に数えきれぬほど存在する。見えない、見せない、見ようとしないだけで。

誰もが明日、今日の自分ではいられない可能性を持っている。



風呂にほとんど入らない愛猫を、何の苦もなく抱きしめることができるのと同じくらいの寛容性を、人にも向けたいと思うのだった。

 

2026-06-24 11:47:00

小さな町の民主主義

ご存知だろうか。

洞爺湖町議会の議員定数が削減の方向に舵をきっている。



「削減」と聞くと、一見良い響きに感じるかもしれない。税金の削減になるならいいじゃないか。成り手もそんなにいないんだからいいじゃないか。そんな声もあるのだろう。
始まりは議員定数削減の陳情書だったというのだから。

 



では、議員とは何か。

多くの人は、町長が町を動かしていると思うかもしれないけれど、日本の地方自治は町長だけで成り立っているわけではない。

首長(町長)と議会議員の双方を住民が直接選ぶ「二元代表制」が採用されている。



つまり、

●町長も町民が選ぶ
●議員も町民が選ぶ

という二つの代表が存在し、町政を互いに注意深く監視しながら進める仕組みだ。



この二元代表制を正しく機能させるには、議会が単なる追認機関にならないことが重要になる。また反対も然り。

・この予算は本当に妥当か
・他の選択肢はないか
・将来世代や自然環境への影響はどうか

などを議論し、必要に応じて修正や反対をすることも大事な役割だ。



異なる意見が存在することは、対立ではなく健全な民主主義の証であるし、
何よりも議会には、多様な背景を持つ議員の存在が必要だ。

もし議会が特定の業界や団体の代表だけで構成されれば、議論の幅は一気に狭まる。



町には、

・農林水産業
・土木・建設業
・観光業
・商工業

という分野だけでなく、

・子どもと子育て世代
・学生や若者
・働く現役世代
・障害を持つ人やその家族
・介護が必要な人やその家族
・高齢者
・移住者
・教育関係者
・医療関係者
・環境保護や保全に関わる人

など、多様な立場の人が存在する。
議会にもその多様性が反映されることが望ましい。

二元代表制は、多様な人が立候補できて初めて機能する。

ところが、

・時間的負担
・経済的負担
・組織票の有無

などによって、立候補できる人が限られてしまうのは、全国どの市町村においても大きな課題だ。

議会の多様性を維持するためには、「誰でも挑戦できる環境」が重要だ。

その根本的な問題に取り組むこともせずに、そしてパブリックコメントも実施せずに、「議員定数削減」を議会承認のみで進めようとしている現在の町議会は、二元代表制が本当に機能していると言えるのだろうか。



私は、定数削減に反対する議員さんが持ってきてくれた『洞爺湖町議会議員現行定数12人の堅持を求める請願』に、自分の意思で署名をした。

そしてその行末を見届けに、洞爺湖町議会を傍聴しに行った。

結果、賛成3名、反対8名。よって不採択。

つまりその日出席していた議員11名のうち、8名は定数削減に賛成したという結果だった。

不採択の理由としては、先に出ている定数削減の陳情書が採択されたので、という理由にもならない理由で残念でならない。

 

ここから更に注視したいのは、「議会費」も削減されるのかどうかだ。

削減の名目で議員定数を減らすのであれば、当然議会費も削減されるのであろうと思っている。

しかし、もし議会費の予算が削減前と変わらず、なんていうことがあれば、しっかり追求したい。



二元代表制の主役は町長でも議員でもない。
本来の主役は町民だ。

町長も議員も、住民から権限を預かっている存在だからこそ、
「何をしているかわからない議会」
ではなく、
「町民がどんな町政を望むのかを中心に置く議会」
であってほしいし、
町民も町政に目を向け、「これ、なんかおかしくない?」と感じた時に目をつぶらず、訴え続けることが必要だ。

この小さな町の民主主義は、どうなっていくのだろう。

その運命は、投票権を持つ町民が握る。

投票権を持たない人たちの分まで、しっかりと考えていかなければならない。



来年は統一地方選がある。
洞爺湖町議会議員選挙、新しい風がたくさん吹くといい。
議員定数を減らしたことを後悔するくらい、たくさんの多様な候補者が立てる町になってほしい。

そして見極めたい。

この人は、「選挙の時だけ議員さん」なのか「議会の意味と社会の未来を考えている議員さん」なのか。

「大きな権力を大事にする人」なのか「小さな権利を大切にする人」なのか。 

 

地方議会は、国の縮図だ。

しかし地方自治に希望を持てるとするならば、二元代表制であることと、分母が小さいからこそ変えられることもある、ということだ。

自治体独自の取り組みで、モデル事例を作り上げることだって可能なのだ。

 

 

というわけで、議会傍聴を楽しみつつ、町民ジャーナリズムを始動しようと思う。

今後も町政から目を離さず、関心を寄せてもらえるきっかけを町民目線で構築していきたい。

 



※ご興味があればぜひ「能登デモクラシー」というドキュメンタリー映画を観ていただきたい。穴水町の町議会がテーマになっている。
合わせて、富山市議会に焦点を当てた「はりぼて」、杉並区長選を取り上げた「○月○日、区長になる女」もぜひ観てほしい。

2026-05-03 15:56:00

憲法記念日に日本国憲法を考える

 

5月3日は日本国憲法が施行された日。

1947年から守られ続けているこの国の平和憲法が今、岐路に立たされている。

 

改憲か護憲かで世論が揺れる中、新聞をはじめとした各種メディアでは賛成反対を一見分かりやすくパーセンテージで表記する。

読売新聞では賛成が反対を上回ると報じ、朝日新聞では賛成と反対で割れていると報じていた。

しかし実際は、「わからない」という回答も賛成や反対と同じくらいの比率を占める。

つまり賛成か反対かをパーセンテージではっきり線引きできるほど、未だ全国民に憲法への理解が浸透していないのだ。

にも関わらず、大きな一枚のプラカードのように「日本国憲法」をどーんと見せ、さぁあなたは改憲に賛成?反対?と問われたところで、「よくわからない」としか答えられなくなるのも無理はない。

 

日本国憲法は、前文と第一章から第十一章までで構成され、それぞれの章の中で更に細かく条項が制定されている。

多くの人が関心を寄せる「憲法九条」は、『第二章 戦争の放棄』の中に制定されている条項だ。

 

なぜ『日本国憲法』が施行されたのか。

『日本国憲法』がなぜ『平和憲法』と呼ばれているのか。

私たちはまず、そこから知る必要がある。

 

そして「わからない」私たちをどうか無視せず、国にはすべての国民が現在の日本国憲法を理解できるよう、前文を含め第一章から第十一章までのすべての条項を、今一度わかりやすく丁寧に伝える努力をしてほしい。

その対象は大人だけでは無いはずだ。未来を担う子どもたちにも、日本国憲法にはどんなことが書いてあるのか、知る権利がある。

 

改憲議論はそこからだ。

一章一条一言一句の隅々までを精査し、変える必要があるのか、守り続けるほうが良いのか、時間をかけて議論を続ける必要がある。

 

改憲について国民投票になった時に、「わからない」は通用しない。その時には賛成か反対かの選択肢しか無いのだ。投票権の放棄と白紙投票は「賛成」になる。

投票権を持たない人たちの分まで、私たちは真剣に考え議論し、自分の中の答えを導き出さなくてはならない。

 

殺傷能力のある武器の輸出が緩和された話を9歳の我が子に話したときに、彼は憤っていた。

なぜ自分は反対できないのかと、自分には選挙権も無いじゃないかと、彼は憤っていた。

有権者が持つ「一票」の重さを感じた瞬間だった。

 

 

今の情勢に合わせた憲法にしなければならない、そのような声が聞こえる度に

そして、衆院選の追い風のように改憲に舵を切り始めたこの空気に対してこそ、

私たちの『日本国憲法』の揺るぎない平和の礎を示して然るべきなのではないだろうか。

 

 

ここに、日本国憲法の前文と第二章九条を記載する。

改めて読んでいただきたい。

 

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日本国憲法

 

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、

わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、

ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、

その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、

名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、

政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、

他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

 

 

第二章 戦争の放棄〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕

 

第九条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、

永久にこれを放棄する。

 

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない。

 

 

 

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