essay / 湖畔の思索日誌
家のとなりの大きな木
私が生まれる前からずっとそこにあった家のとなりの大きな木が、今日伐採されることになった。
このまま伸び続けると倒木の危険があり、周囲の建物を巻き込む可能性が高いということだった。
自分の土地に生えている木では無いから、そのことについてどうこうする余地もないのだけれど
長年当たり前にそこにあった木が、たった一日で無くなってしまうのかと考えると、心にずんと虚しさが広がる。
伐採の作業をしていた人に、その木の樹齢を聞いてみた。私のそばで話を聞いていた妹は、目を少しうるませていた。
空に向かってのびのびと育ち続けたトドマツは、60~70年くらいということだった。そうか、母が子どもの頃からそこにあるということか。
切られる今日までそんなことも知らずにいた。
60~70年前に、誰かが植えたトドマツ。その木のとなりで私たちは育った。
木からはきっと、いつも私たちが見えていたのだろう。家族や時代の移ろいをすべて、ただ静かに流れるように。
自分たちの人生がそばにあったというだけで、
こんな感情が込み上げてくる自分もまたなんて勝手なんだろうと自覚しつつも
ただ伐られる運命のその時を相変わらず静かに待つトドマツを前に、やはりどうしても私は寂しい。
今朝は妹が一緒でよかった。
光らない時間
私たちはいったい、この手のひらの四角い画面に人生のどれだけの時間を費やすのだろう。
ふと、おそろしくなる時がある。
それが無い時代を知っているのに、それはもう遠い昔のことのよう。
それが無い時代に、どんな過ごし方をしていたの。
それが無い時代の小説を読み、それが無い時代の映画を観る。
それが無い時代には、今は失われてしまった時間が溢れていた。
四角い画面の向こうには今日も数多の、如何にも豊かで輝かしい人生が溢れている。
たくさんのハートを求める人々の首は直角に折れ曲がり、充血した目線の先にあるのは手のてらで光る四角い画面。
この四角い画面に人生が吸い込まれるなんてご免だ。
私の時間は、人生は、画面越しにあるのではない。こちら側にあるのだ。
そう言い聞かせて前を向く。
目の前で流れていく光らない時間を、私だけの心に刻む。
ちょうどよい距離感
常にちょうどよい距離感を求めている。
ちょうどよい距離感はとても安心できる。
でも具体的な距離とも違うから、距離感を言葉で伝えるのはむずかしい。
たとえば、名前に「さん」付けはとても好ましい。最も好きな敬称だ。
「ちゃん」や「くん」は最初は緊張するけれど、慣れてきたら自然に呼べる。
ニックネーム呼びや呼び捨ては、かなりハードルが高い。
初対面でニックネームしか教えてもらえないとかなりつらいけど、何度も会う人なら呼べるようになる。
滅多に合わない人だと、呼ばずに会話できる方向へ誘いたい。
一番難易度が高いのは、「さん」から「ちゃん」またはニックネーム呼びへの移行だ。
タイミングも難しいし、相手から促されて変えるパターンと、周囲の呼び名に合わせて何となく変えるパターンがあり、どれを取ってもスーパーハードだ。
「さん」付けの敬称呼びは、私にとっては最適な距離感だけど
相手にとってはどうなのだろうか、と時々考える。きっとひとりひとり最適な距離感は違うのだろうから。
そういった意味では、互いに同じくらいの「ちょうどよい距離感」を持つ人とは、長くつき合えるということなのかもしれない。
身近な存在だと、夫とはとてもちょうどよい距離感を保っている。互いに呼び捨てにしない関係は、これからも変わらないであろう。
最後に、
敬語はとても落ち着く。
略語が苦手だ。できれば正式名称が良い。
でも、ちょっと古いけど、げきおこぷんぷんまるという言葉は怒りをまろやかにしてくれるので好きだった。使いはしないのだけれど。
だから時々、いいなと思う略語もある。やはり使いはしないのだけれど。
夕刻の虹
日の入りが少しずつ早くなり、仕事を終えて車に乗り自宅へと向かう時間がちょうど夕暮れと重なる。
昨日の夕空はオレンジとパープルとピンクを混ぜたような明るみを帯びた色で、
すでに暮れた遠くの薄暗い空との対比と、所々に射す黄金色の光が何とも美しく、こういう日の帰路は特にゆっくりと車を走らせたくなる。
カーブを曲がったその時、ただでさえ美しいその空に虹が架かっていた。
思わず声が出た。あぁ…きれいだなぁ…。
後続車やすれ違った車のドライバー、そして同じ時刻に空を見上げたすべての人が、きっと同じ気持ちだっただろう。
次のカーブを曲がった時には、もう消えていた。
自然のもたらす力は偉大で平等だ。この夕刻のたった一瞬で多くの心を癒やすのだから。
人間など、到底足元にも及ばぬことを自覚する瞬間でもある。
そして及ばぬながらも、本質的に良いと思える生き方を私は選びたい。
忖度なく誰もが美しいと感じた、あの夕刻の虹のように。
トマトの香り
連日30度近い気温が続く。北海道の夏もずいぶん暑くなったものだ。
車の色が黒いことも相まって、日に照らされた車内はサウナのように熱い。
エアコンが効くまでに時間がかかるから、すべての窓を半開にして走る。(※全開は強すぎるので半開がちょうどよい)
なまぬるい風が最大風量で駆け巡りながらのドライブは、インドア属の私が感じられる数少ない「夏のアクティビティ」に等しい。
北海道らしい広大な畑がフロントガラスのみならず、全方位に広がる。
空と入道雲と山々、そして果てなく続く畑を眺めながら車を走らせていると、途中から風がふわっとトマトの香りになった。
運転していなければ目を閉じて感じたいくらい、これは絶対トマトだ。
パズルのピースが埋まるように、完璧な夏を感じた瞬間だった。
後部座席から「トマトのにおいがするね」と子の声がした。
「そうだね」と答える自分の中に、なんとも穏やかな喜びがあった。
