essay / 湖畔の思索日誌

2026-06-28 15:22:00

【読了録】水たまりで息をする

主宰している月イチ文學倶楽部の、6月のテーマ図書は高瀬隼子さんの「水たまりで息をする」だった。

 

ある日を境に風呂に入ることを拒絶し、発する「におい」により社会から静かに逸脱していく夫と、「こうした方がいい」という社会規範に合わせて群れなす方へ泳ぐように生きてきた衣津実。

「食べられない」などとは違い、すぐに死には直結しない「風呂に入らない」という行為の受け止め方は、夫という血のつながらない家族であるからこそ想像を絶するほど理解が難しい。

軽視されがちな「心の闇」の見えにくさを、通りすがれば誰もが気づく「不快なにおい」として社会に向けるこの小説の構成は、読めば読むほど発見がある。

風呂文化と清潔感が結びつき、パブリックスペースの無臭消臭が暗黙のルールでもある日本社会の中には、嗅覚での厳しいジャッジは確かに存在する。
仮にこれが、川での沐浴文化や多様なにおいが存在するインドであったなら、違う結末だったのかもしれない。

「水たまり」とは、おそらく生きづらさを抱える当人たちの世界や生活環境であり、私たちの生きる社会の穴でもある。

自分が身を置く水たまりで何とか息をして持ちこたえられる衣津実のような人間もいれば、生きるために必要な自分に合う水を見つけられずに、水たまりで息絶えたり、行き場を失い、追われ、流されてしまう人間もいる。

気休めのハッピーエンドで終わらせず、これが希望なのか絶望なのか、読者に考えさせる余白を残してくれる作品だった。

人は人に厳しい。何らかのかたちで逸脱する人を途端にジャッジする。自分が穴に落ちるわけがないと思っている。

今の状態のまま、老後まで平和に年を重ねていくのだろうと思っていた36歳の衣津実の身に起こることも、

社会生活に感じる痛みが蓄積し、自分の垢とにおいこそが社会から我が身を保護する最強の鎧となってしまう35歳の研志の逸脱も、

実はさまざまなかたちでこの社会に数えきれぬほど存在する。見えない、見せない、見ようとしないだけで。

誰もが明日、今日の自分ではいられない可能性を持っている。



風呂にほとんど入らない愛猫を、何の苦もなく抱きしめることができるのと同じくらいの寛容性を、人にも向けたいと思うのだった。